皺(しわ)が美しく感じてもいい
「これって、美しいなぁ〜」
目的もなくただ混ぜた色、
何かを作るでもなく織りあわせた布、
誰にも見せるつもりもない、
自分だけのために生まれた小さな創造物を
じっくりと眺め、
それに触れる時間が昔から好きだった。
なんの役にも立たないけれど
自分としては美しさを感じる
そんな創造物と触れ合うことが
私にとって至福の時間だった。
アートセラピーに出会って
自分が繰り返しやってきていたことの意味が
よくわかった。
そして、今
声やアートを通して、
人が自分自身と出会う時間をつくる仕事をしているけれど
そのたびに発見する、それぞれの人の「美しさ」
その美しさに触れることも
この仕事をやっている喜びでもある。
美しさとはなんであろう?
アートと美は、ずっと寄り添って語られてきたふたつの言葉。
でも、現代アートの世界では、
その「美しさ」の定義を覆すように、
一部のアーチストたちは表現してきた、というか挑戦してきた。
歪んでいる形、壊れかけたもの、汚れとしか受け取れないもの、
理解を拒むような沈黙のかたまり。
そんな作品の前で立ち尽くし、
「アートってなんだろう?」と感じたこともあった。
アートセラピーを学び始めた頃、ある先生がこう言った。
「アートセラピーでは、美的な評価はしません」
当時の私は、その言葉に特に疑問も呈さず、うなずいたのを覚えています。
上手くできているのか、評価をえられるものになっているのか、
そういうことから解放されるのがアートセラピーなんだ、と。
でも、たくさんの表現と出会っていく中で、
一般にいわれる美しさの「評価」ではもちろんないけれど、
人が、ひとそれぞれが、美しいと思える感覚こそ
むしろ癒しにつながっているのではないだろうかと。
たとえば、エステティックサロンの広告に映る美しさ。
色白で、つるんとした肌。余計な肉のない引き締まった体。
そこには確かに「一般的な美の定義」があり、
そこに憧れる人たちがたくさんいる。
でも時には、深く刻まれたしわが、とても美しく見えるときがある。
時をくぐりぬけた生き様が、言葉にならない豊かさが、
その人のまなざしから滲んでくるとき、
私は深淵な美しさに触れることができる。
整っていない線、はみ出した様な勢いのある色、
不可解だが親しみのある形、震えるような声。
そういうものにも、何度も胸を打たれてきた。
美しさは、調和の中だけにあるのではなく、
不完全さの中にも宿っている。むしろ強い輝きを放って。
だから一時期
アートセラピーで「美しさを問わない」ということに
違和感を感じていた。
美しさこそ問われるべきだろうと。
美しさこそ、癒しにつながると言えるのではないかと。
そんな時、パオロクニルというアーツセラピストを知った。
彼はアートセラピーにおいての美的価値に関して
とても深く扱ってくれていた。
そして、「美的要素を問わない」
という、その言葉を
表面的に捉えていた自分の未熟さにも気づかせてくれた。
一般の美の評価軸に惑わされず
「あなたの感じた美しさを信じて
どうぞ自由に表現してください」
という意味なのだと。
なにが正しいかではなく、
何か心をとらえたのか?
質的評価ではなく、
どう響いていくるのか?
その人だけの、たったひとつの「美しい」が、
声や線や手触りの中に、そっと息をしている。
それに気づいたとき、
世界中のあらゆる美しさと
共鳴することができる様になるのだろう。
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